人はなぜ正しいと思う意見を述べにくいのか その疑問点を解きほぐす

同調圧力に どう向き合えばよいのか

グループ(組織・集団)について考えてみましょう。組織や集団は人の集まりです。企業も同じで、「ある目的」のために意図や意識を持って組織化された集団です。「利益を上げる」「日本一高性能の製品を作る」など、「目的」はいろいろあるでしょう。ただ、「目的」は一つでも、そこに至る方法は一つとは限りません。むしろ多様な選択肢があると考えるのが妥当です。例えば富士山頂を目指すルートは一つではありません。富士スバルライン五合目を登山口とする吉田ルート、須走口五合目を登山口とする須走ルート、御殿場口新五合目を登山口とする御殿場ルート、富士宮口五合目を登山口とする富士宮ルートの四つがあります。どの登山口・ルートを選択しても目的地は同じなのですが、ルート決定に際して、絶対的なリーダー、あるいは登山グループの大勢が「これ以外のルートはだめだ」と主張している場合、よりベターだと思うルートを提案しようとしても、なかなか言いづらい状況になることがあるかもしれません。本来は、多様な意見を出し合い、耳を傾け、最終的に全員が納得したうえで最適ルートを選択するべきだとわかっていても、異論を言いづらい。もしグループに世界的に著名な登山家がいたら、その人と対立するような意見を述べるのは非常識だと言われかねない空気が生まれるかもしれません。このような状況は危険です。

ところで、南極観測といえば、多くの日本人は第一次越冬隊が撤収する際に南極に置き去りにされた15頭の樺太犬のうち、タロとジロが生き抜いて奇跡の再会をしたことを思い浮かべるでしょう。南極点到達をめぐってはその昔、世界の先進国が激しい先陣争いをしました。目的はただ一つ。「どこよりも早く、南極点に自国の旗を打ち立てる事」でした。その中で、最終的に先着争いをしたのは、ロアール・アムンセン率いるノルウェー隊と、海軍大佐ロバート・スコット率いるイギリス隊でした。勝敗を分けたのは、南極点に至るルートをどういうやり方で決定したのかということと、南極点を目指す移動手段をよく吟味したかどうかの違いでした。

つまり事前の準備の差だったのです。当初劣勢とみられていたアムンセンは、遭難したらどうするかではなく、極力遭難しないように徹底検証してルートを決定。移動手段として寒さに強く軽量の犬を用いました。一方スコットはルートの選定にあたりそうした視点が欠落していました。しかもノルウェー隊が犬ゾリを使うようにアドバイスしたのに、これを拒否して馬を使いました。この結果、アムンセンは順調にルートを踏破。南極の寒さや雪にも耐える犬を使ったそりのスピードでスコット隊を圧倒し、一番乗りを果たしました。スコットは難ルートで散々な目に遭い、頼りとする馬は次々に死亡。最後は人間がそりを引くという無謀な手段を選んでしまったため、ついに全員死亡するという悲劇を生んでしまいました。

アムンセンの勝因は、最悪の事態を想定し、そういう事態にならないようにするには、どのようなルートを選び、運搬に使う動物は何を選ぶべきかと言う周到な準備、防衛策を取っていたことに尽きます。いつの時代も「起きてしまってからでは、遅い」のです。そうならないように「防衛策」を講じることが重要なのです。一つの目的に向かう時に、一つの方法しかありえないということは、まずありません。多様な角度から検証し、最悪の事態を想定し、最も成功率が高く、それに従事する人々のやりがいといった幸福度を上げるシステムが大切です。

現代の企業や団体においても、同じようなシチュエーションが想定できます。たとえば自動車メーカーで「日本一燃費がよい自動車を作ろう」という「目的」に向かう時に、技術者全員が「組織が考える合理的なやり方」で車両開発をするとは限りません。開発グループの総意が電気エネルギーを前提にした電気自動車の開発を「合理的な選択」と考えている時に、ガソリンと電気を併用するハイブリッド型エンジンを提案するのは勇気がいります。「和を乱すな」「何を余計なことを考えているんだ」等々。たしかに世界的な環境問題、エネルギー問題、ガソリンに支配される経済構造からの脱却を考える時、低公害でガソリンに依存せず、環境に優しい電気自動車は理想かもしれません。

しかしそれが性能的にも価格的にも十分普及するまでどれくらいかかるのかということを考えると、コスト面にしても、長距離が走れてエネルギー補給がしやすいという面から考えても、使い勝手が良いという点を考えれば、「つなぎの一手」としてのハイブリッドカーの先行開発は正しい戦略かもしれません。

あるいは新聞社で「これ以上紙の新聞の購読者を減らしたくない」という「目的」を掲げて、全員が「だれもが手にとって読みたくなるような紙面を作りたい」という戦略を練っているときに、紙はあきらめて、インターネットを中核とした新しい報道商品を提案しようとしたら、「インターネットは紙の新聞の敵だ」と総スカンを食うかもしれません。

紙の新聞は「習慣商品」といわれ、毎朝新聞が届いていないと気分が落ち着かないから購読を続けるという説は昔からあり、楽観視する新聞社経営者が多かった。ところがいわゆる貧困老人層が増え新聞購読を辞める流れが加速。しかも近年の60歳代は現役時代からネットを使ってビジネスをしていた世代となり、紙の新聞よりネットニュースが慣れているという「ニュー老人」ばかりになるという誤算も。紙の新聞は減る一方です。「紙の新聞がすべてである」という100年前の意識にしばられている体質の新聞社の経営陣は、なんとか紙の新聞の生き残り策を模索している最中にデジタル情報商品を提唱する社員などは「合理的」な仕事をしているとは思えないでしょう。しかし、組織とっては合理的ではない、一致団結からはみ出すような意見や仕事こそが、組織を助けることもあるのです。

とはいえ、現実には、なかなかこうした「はみ出し者」の意見は反映されにくいものです。設定された「目的」に向かって全員が「合理的」に仕事をするとは限らない。むしろそういう異端児は少ないのです。なぜでしょうか。どのような組織であれ、そこには「隠れた力」「集団的な圧力」が働いていることがあるのです。

その「集団的な隠れた力」は、一致団結して目指すべき「目的」に向かって進む集団としての「意思の強さ」や、コミュニケーション(意思の疎通)に強い影響を及ぼします。組織の指示系統に影響を及ぼすのは、top-downやbottom-upだけではないのです。構成員の地位、学歴、年齢層、出身地、性別、民族、文化、考え、性格、感情などが影響しています。それがその組織のカラーになります。企業内の派閥などはその典型ではないでしょうか。

会議も必ずしも「合理的」に進められるとは限りません。会議という集団の場では、「ひょっとしたら異端ととられかねない意見を述べて大丈夫だろうか」という自己検閲や、「なるべく皆と同じようなことを言っておこう。出る杭は打たれるからな」といった、同調圧力に対する防衛本能が働きます。ワンマン経営企業の取締役会では、社長の意見に異を唱えれば次の役員改選で外されるかもしれません。営業部会で、部長の意見に反対すれば、本社から飛ばされるという恐怖心はサラリーマンの多くが心の底に持っている防衛本能からきており、それはある意味当然なのです。しかし、それでは個人の「こころの健康」がむしばまれるだけでなく、企業の健康も損なわれてしまう懸念があります。

イギリスには「全会一致の幻想」ということばがあります。集団で何らかの意思決定を行う場合に、「自分が属する組織やグループの結束を乱したくない」という自己検閲の心理作用によって、疑問を呈したり反対意見を述べることを躊躇してしまう。客観的な見方や批判的な意見が妨げられてしまい、「異論がないということは、賛成を意味するのだ」という誤った認識によって、本当は個人としては異論や修正案があるにもかかわらず、全会一致の状況が作られてしまうという兆候を指しています。また、「斉一性の原理」といって、少数意見がつぶされていく現象もあります。ここでは、少数派は軽んじられ、異端とされてしまいます。多数決が当然と思っている方もいるかもしれませんが、古代ユダヤの議会では「全会一致は否決」とされました。一つも異論がないと十分な議論が行われないため、皆で間違ってしまうことを恐れたのです。

こうした傾向は、企業や団体においても結構みられることではないでしょうか。これは組織を健全に動かすにはマイナスの要因です。ではどうすれば、こうした集団的思考停止ともいうべき陥穽に落ち込まずに済むのでしょうか。

  1. 総論に対する異論や、批判的な意見を阻害しないルール作り
  2. 上部に属する側が結論ありきで議論を始めない
  3. 会議運営のルールとして必ず反対意見を言う役割を担う出席者を決めておく
  4. 「全員賛成」「全員反対」という結論は無効という原則を厳守する

こうしたことが有効ですが、それ以前に、組織内のコンセンサスを得られるような組織づくり、人事政策が必要になります。こうした社内組織の健全な構築を怠ると、うつ病などで人材を失っていく恐れがあるのです。

このように集団的な議論によって結論を出す際は注意深くなければなりません。組織が「物言えば唇寒し」のような雰囲気や、かつての大本営発表のような様相を呈している環境では、個人の自由な発想や理念が無視され、潰されていきます。そうなると、どんどん個人の意欲は削がれ、場合によっては個人の「こころの健康」を損なう原因となり、ひいては組織の生産性の低下や人材喪失につながりかねない。この危機意識を持つことが大切です。

「人は一生成長していく生き物である」
という言葉を考えてみる

コミュニケーションの喪失は
人間関係の破綻

次は「人」(個人)を考えましょう。企業、団体、社会を支えているのは人です。人の「こころの健康」が損なわれていく社会は健全ではありません。近年の社員や職員のうつ病の増加や過労自殺は、決して個人の問題ではなく、社会の重大な危機ととらえる必要があります。付け焼刃の対応や、事後処理で事足れりとする発想から脱却することが求められます。社会は「個人」の集合体です。社会を考える時、会社であれ、学校であれ、国全体であれ、個人という根源をなすものを理解することが大事です。では私たちは「個人」をどうとらえたらいいのでしょうか。組織(集団)との関係における「個人」とはどう考えられるのでしょうか。そこから考えていきましょう。

人の発達心理学において、考えるべき2つの要素があります。それは成熟と学習です。人は生まれた瞬間から発達していきますが、この発達を推進するのがこの2つの要素です。意図的な働きかけをしなくても脳の発達に応じて子供が元々持っている遺伝情報を出現していくのが成熟であり、才能と言い換えてもいいかもしれません。一方、経験やトレーニングといった環境的因子がもたらす影響が学習であり、努力と言い換えてもいいでしょう。人はこの2つの要素を縦糸と横糸にして、まるで織物を作るように織りなしながら進化していく。それが発達です。発達には個人差があります。「這えば立て、立てば歩めの親心」と言いますが、発達には順序性があり、速度や方向性があります。他の子よりも早く走り出す子供もいます。2人の子供がいれば、たいていの場合興味を示す対象や度合いは異なるものです。発達の過程で、子供は異なった個性を徐々に形成します。心理学ではパーソナリティの形成といいます。

「人は一生成長していく生き物である」。これはドイツの心理学者エリクソンの言葉で、彼が唱えた「ライフサイクル論」では、人の発達を「幼児期」から「老年期」までの8段階に分けています。人は幼児期の信頼性獲得からスタートし、自律性、自発性、勤勉性、青年期には「自我同一性」(自分は何者であるのか)、さらに年を重ねて親密性、生殖性(次世代への継承の意識)、自我の統合で一生を終えるとしています。これは著名な精神分析学者フロイトの心理および性的発達理論に社会的視点を加味したものです。

こうした人の発達は、同一速度でもなければ、同一方向でもありません。それぞれの自我により、無限と言ってよいほどの時間軸と方向性を持つのです。「唯一のもの」はないのです。自分のパーソナリティや、自分が過去に体験してきた「特定社会のパーソナリティ」は、それ自身尊重するべきものではあります。しかし培ったパーソナリティ、自己の哲学は他人に強制的に同調を求めるものではないのです。それが理解できないと「俺にできたことが、なぜお前にはできないのだ」「昔の現場は、今のような甘いものではなかった」という論理を押し通そうとする行動につながりかねません。そうなった場合、そこにミュニケーションは生まれず、人間関係性の破綻が生じます。力は強いほうから弱いほうに流れますから、組織内においては、従業員であったり部下の立場の「こころの健康」にマイナスに作用しかねないのです。

「個人」は単純ではありません。自分自身を振り返ってみましょう。そこには、「内的」な自分と、「外的」な自分が存在しているはずです。「本音と建て前」という諺がありますが、「内的自分」と「外的自分」は分けて考えることができます。

別の考え方をしてみましょう。「個人」を「単独のもの」として考えるのはとても困難ですし、あまり実際的でもありません。むしろ「個人」は「他者」(社会や集団)との関係においてとらえるのが分かりやすいと思われます。言い換えれば、「個人」と「環境」との関係性です。「精神的な不調」が生じている場合、「個人」と「環境」との間に不適応な状態が生じていると考えると分かりやすいと思います。不適応な状態が生じると、本人にとってよくない状態、すなわちストレスが発生します。

一流レストランでのディナー。誰もが憧れる海外の高級リゾート。話題のソフトクリーム。高級外車。SNSの発達で際立っているのがこうした写真をネットに公開するトレンドです。自分がいかに幸せな状況にあるかを不特定多数の人に知らせたいために、話題の店に何時間も並び、次の客が待っているのに延々と豪華なご馳走の写真を撮影し、インターネット上にあげる。たくさんの「おいしそう」「羨ましいな」といったコメントを欲しがる。反応がないと、さらに次のターゲットを探す。こうした傾向に「社会的に何の意味があるのか」「時間とエネルギーの無駄遣い」「もっと有意義なことにネットを使え」と眉をひそめる知識人も多いようですが、これも人間の心理的行動原理です。

「誰かに、すごいと思ってほしい」「うらやましいと思われる自分でいたい」という感情を抱くのは普通のことで、誰かを傷つけたり反社会的な内容でない限り、それほど非難されるべきものではありません。誰かに認めてほしいという願望を心理学では「承認欲求」といいます。承認欲求は悪いことばかりではありません。「いずれは、皆に一目置かれる一流の大工になる」とか「この世に、誰もが感動するような絵を描いて才能を認められたい」といった感情的発露は、辛くても努力しようとするモチベーションを生みます。むろん、欲求が強すぎると歯止めが利かなくなり、犯罪に手を染めてしまうことすらありえます。

承認欲求にも「内的自分」のものと、「外的自分」のものがあります。「今の自分の存在というものは、自分が理想としている自己像と重なっているか」とか「本当に今の自分に心から納得しているか」という意識が「内的自分」の承認欲求であり、自己承認です。「人から認められたい」「自分はこんなに才能があるんだよ」「自分はこんなに幸せなんだよ」といった欲求が「外的自分」の承認欲求であり、他者承認です。

「自分を受け入れ、認めてほしい」という「承認欲求」について、心の健康を守るという観点から少し掘り下げましょう。「弱い自分を守り、傷つきたくないので正当化する」という、傷つくことからの「防衛」は個人最大の行動要因です。「承認欲求」が満たされれば、生きがい、喜び、自己満足、自己肯定感が生まれます。しかし、他人はさまざまな異なる感情や価値観を持っているので、自分の「承認欲求」は簡単には満たされませんし、認められずに「傷つく」ことも多いのです。人が「建て前」と「本音」を分けてしまうのも、「へたに自己の承認欲求を前面に出すと、周囲から批判されてしまうかも知れない」と構えてしまい、自分の本当の気持ちを抑え込んで、「欲求を否認する」ことを選択することで、自分が傷つかないようにしているのかもしれません。

春秋時代の中国の思想家・哲学者である孔子は、「論語・子路」で「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と言っています。その心は、「君子は誰とでも調和するものだが、道理や信念を忘れてまで人に合わせるようなことは決してしない。そういう人物たれ」ということです。これを企業内という環境に置き換えると「優れたビジネスマンは、多くの意見をしっかり聞くものだが、企業理念やコンプライアンスに反してまで上司の言うことに唯々諾々と従ってはいけない。優秀なビジネスマンほど自分の意見ははっきりと言うべきである。つまらない人材ほど、従順に同調しているように見えても、心から信奉しているわけではないのだ」ということになるでしょう。

現実には、もし孔子の言葉をそのまま会社で実行すれば、上司ににらまれ、同僚からは協調性のない奴だと思われかねません。そこに自己規制が働きます。意思に反してそういう行動を重ねるとストレスが生まれます。「おかしいよな」「ありえないよな」「長時間働かないといけないなんて、辛いけど、いやな顔はできないものなあ」と疑問や不満を増幅させ、我慢しながら働き続けて、どういう結果が出るでしょうか。

集団と個人との関係について教訓的に伝わる言葉に「柳に雪折れなし」があります。雪が積もると固い木は重みに耐え切れず折れてしまうことがあるが、しなやかな柳の枝は、雪の重みを受け止めてしなるので折れることがない。「柔軟性が大事だよ」と言っているのですが、皮肉な言葉に置き換えると「長い物には巻かれろ」「触らぬ神に祟りなし」ということになるでしょうか。こうした世知は世界共通ともいえるようで、英語圏でも、"Oaks may fall when reeds stand the storm." という格言があります。「嵐に遭っても柔らかな葦は耐えるけれど、樫の木は倒れてしまう」。よい意味でとらえるならば、こうした言葉は「自分(個人)」と「組織」との関係を「自分を失わずに、ぎりぎりまで組織に対して適応的にもっていこう」という気持ちを表しているといえます。

仏教には「十界互具」という教えがあります。これは、人は静かに内省すれば、己の中に「残酷な地獄(鬼)の心」もあれば「他人を気づかう仏(ホトケ)の心」も同時に存在していることが自覚できる、というものです。簡単に「自分」と言ってしまいがちですが、「自分」とは決して単一ではなく、さまざまな思いが交錯している多面的な存在であるという真理を認識することが大事です。

人の気持ちは、とても複雑です。身体の傷にはすぐ気がつくのに、自分自身のこころの傷には、自分でもなかなか気付かないものです。これだけ、うつ病など心の健康をむしばむ実態が広く知られてきているのに、「自分がこころの病などになるわけがない」と思いがちなのです。

それは何故でしょうか。そこには「防衛」というものが存在しているのです。自分自身は決して傷付きたくない。そういうところに、知らぬ間に働いてくるのでしょう。そうした実態があるだけに、「自分の精神状態を知って、しっかり対策を講じる」というセルフケアは、その重要性に比して、現実にはなかなか困難というのが実情です。仕事帰りに居酒屋に寄って、憂さを晴らす。その程度でも、一定の効果はあると思いますが、つまるところ一時しのぎでしかありません。抜本的な対策、とりわけ、そういう事態に陥らないようにする「事前防衛」という手段を、個人としても、企業や団体の組織としても選択する必要があるのです。

ほとんどの人はうつ病など「精神的な不調」の名前は知っていても、その実態にはあまり関心がありません。なぜでしょうか。「自分には関係ない」と思っているからです。ところが実は誰でもそうなる可能性はあるのです。だれでも、「人生って面白くないな」(not well-being、幸せでない)という鬱々とした感情を抱いたまま人生を終わりたくないはずです。社会的存在である「個人」は、社会の中で生きていく以上、仕事であれ、家庭であれ、それ以外の付き合いであれ、何らかの「ストレス」がつき物です。ストレスを抱え込んだまま生きるのは辛い。しかし、そのストレスは解消できるのです。さらに言えば、ストレスを「生きがい」に昇華させ、個人としては「生きがい」の形成、組織としては「生産性の向上」に振り向けることができます。それには「個人」も「組織」も、価値観の転換が必要になります。

ビジネスや恋愛の場面などでしばしば「以心伝心」という言葉が使われます。契約書などなくても、自分も相手もお互いに考えていることや、やってほしいことは分かる。「愛している」と言わなくても自分の気持ちはわかってくれているというふうに、一般的には良い意味で使われます。しかし、それは一方で、自分と他人の間の「あいまいさ」を示しており、「他人もきっと自分と同じだよな。当然分かっているよな」と思い込むことともいえます。しかし他人のこころは所詮分からないのです。もともと以心伝心とは禅宗の根本的立場を示すもので、仏法の真髄を「師の心」から「弟子の心」へと伝えることであり、文字や言葉にするまでもなく互いにその境地に至るという不立文字の教えです。本来の意味とは随分かけ離れた使い方をされるようになった言葉の一つです。

バブル崩壊直後に、「清貧の思想」という中野孝次の著書が話題になりました。一切を捨て切った心の豊かさを説いています。「清貧」という言葉に人々が新奇性を抱くほど、現代日本では清貧を貫くことに価値を認める人がいなくなったと見ることもできるかもしれません。仮想通貨で預金を失ったり、眉唾ものの投資話に何千人という人が騙される事件は後を絶ちません。これほど報道機関や司法が警鐘を鳴らしているのに、少し考えれば明らかに怪しいのに、それでもいつの間に取り込まれてしまう人々。楽をしてお金を稼ぐ。そのことに人生の重心が置かれ、貧乏なことは恥なことになってしまいました。

かつての日本では、例えば「世界一の高性能品」を作るために多くの人が勤労の汗を流しました。日本は世界一、二を争う経済大国になり、世界でも稀な安全な国にもなりました。もちろん公害や学歴社会という負の要素も生み出した反省は忘れてはなりませんが、飛躍し成熟していったのです。翻って、現代日本を覆っているのは「損をしたくない」意識です。少しでも安いものを手に入れたい。少しでも利益率を高めたい。「コスパ」=「コストパフォーマンス」という言葉ばかりが飛び交っているような世の中です。もちろん費用対効果は必要な経済原理です。金銭だけでなく労働力、精神的負担などもコストに含まれます。しかし、行き過ぎはよくありません。全てが「お金」という価値に換算されて評価される現実。しかし、たとえお金にならなくても人が求めるものは常にあります。企業が税金対策や企業価値を高めるためなどに行うメセナ事業ではなく、そうした企業の思惑とは関係がないところに、人は心のやすらぎを求める傾向にあります。

この「個人の章」で最後にお伝えしたいことは、「依存」です。依存するということは、我々のこころの実態を示しています。具体的に挙げれば「助け合いと甘え」です。人は、何にも依存せずに生きていくことはできないのです。人が依存する対象、よりどころとする存在。その一つは家族・配偶者です。この繋がり以上の密接な情緒的、存在的な繋がりはないでしょう。だからこそ、彼らとの関係の不調は、ほぼ絶対的な影響を人生に与えてしまいます。

最も大切な家族・配偶者。その上に成り立つ地域や社会、国、世界。そこで必須になるのはコミュニティです。近年、信じられないような災害が続発しています。そんな中で、行政が盛んに喧伝し始めているのが「自助・共助・公助」の「三助」です。災害時に、自分自身の命は自分で守るというのが「自助」。町内会や学校区レベルの、いわゆる顔が見える地域コミュニティで力を合わせるのが「共助」。国や自治体などの公的機関が災害に関する大きな問題を解決するのが「公助」とされています。これは江戸時代に出羽国米沢藩(現在の山形県や秋田県付近)の藩主・上杉鷹山が唱えた「三助の実践」が原型といわれています。あえてコミュニティという言葉を広めなくてはいけない理由は、日本の風土にあります。長く封建制が続いた日本では上下関係にとらわれやすく、真の意味で「協力=共力」することが苦手です。私たち日本人は、孤立することを嫌う一方で、その対極にある「お互いを尊重する」という意味での人権意識が薄いようです。この結果「真のコミュニティ」を形成しにくいのです。

そういう日本人的メンタリティはありますが、看過していては事態が悪化する一方です。家庭においては「話せる家族環境」を作り上げていくために、家族全員の協力が必要です。企業や団体においては、「腹蔵なく意見が言える風通しの良い社風」を作るために、そこで働く一人ひとりが、いかにしてコミュニティ能力を身につけていくか。企業がどのようなロードマップで人材のコミュニティ能力を形成していく企業戦略を練るか。それがこれからの「心の健康」をキープした従業員による企業の進化、そうした企業や団体を包み込んだ「心の健康を維持する社会」形成につながるポイントです。

「こころの病」から過労死への
スパイラル回避策は企業の責任

陥穽から抜け出せなくなる社員を
生まない企業戦略

「こころの病」について考えてみましょう人は、いきなり病になるわけではありません。人の「こころの状態」は3ステップあります。何も問題ないのであれば「こころが健康」な状態です。明らかに強い自覚症状があったり、医師による診断で病名がつくような段階は「心の病」です。実は、この中間があるのです。それは「こころの不調」といい「未病」とも呼ばれます。つまり「こころが健康」→「こころの不調(未病)」→「心の病」という段階を踏むのですが、問題は、この「未病」です。病院で検査を受けても「病気」と診断するに足るだけの異常や医学的知見が確認できないために、「病気」とは診断されないのですが、かといって、健康とはいえない心身の状態が「未病」です。

「未病」に対する適切な対策を取らず、放置したままにしておくと、いずれ病気になる可能性があると予測されます。本人自身がなかなか自覚できない。まして他人は理解しづらい。なんとなくだるい。熱もないし体で痛いところもない。でも気力がわかない。「病気じゃないよな。会社を休むほどじゃない」「これくらいで休んでは、上司に叱られる」。人は、未病の時に、ついこう考えてしまいがちです。未病という言葉は中国の古典医学書「黄帝内経」にみられます。この医学書は中国の戦国時代から秦・漢時代にかけて集大成されたものです。生理・病理・診断法・治療法などについての基礎的理論が述べられています。このような大昔から、人は「未病」に悩まされてきたのです。

こうした「こころの問題」は、熱が39度もあるとか、心臓の手術をしたとか、病気で視力を失ったというような、だれでもわかるものではないので、なかなか他人には理解されにくいものです。理解してもらえない。心の病の当事者は、だからこそ苦しいのです。本人はまったく問題ないと思っているのに、配偶者や上司など身近な人に指摘されることもあります。本人に不調の自覚がないのに、周囲からみると、なんだかおかしい、明らかに何かあると感じるような場合もあるのです。このように、心の病は数値で割り出せるものではない一方で、本人は自覚が無いけれど何らかのサインが出ていて、敏感な他人であれば気づくケースもあるのです。

また、よくある先入観として、「こころの悩み」は本人自身の心理的要因に起因すると思いがちなところがあります。確かにその要因はあるのですが、それだけではありません。

たとえば高齢になった親の介護で疲れてしまうことも原因になりえます。内閣府の2016年版高齢社会白書によると、日本の総人口は減少しているのに65歳以上の高齢者は年々増加しています。当然ながら、要支援・要介護認定を受ける人の数も増加しており、厚生労働省が発表した2014年度の介護保険事業状況報告によると、2000年には256万人だった認定人数が2014年には606万人と急増しています。これに対応するべき介護施設は絶対的不足が続いています。特に人材不足が深刻です。そうなると要介護者に認定されても入所できず、家庭での介護サービスもなかなか受けられない人が増加するわけです。この現象を介護難民と呼んでいます。

そうなると、専門的知識も技能もない家族が介護することになります。その負担は肉体的、精神的に極めて大きく、介護する側にさまざまな問題が生じます。いわゆる「介護うつ」という症状に悩まされる家族が増えていくのです。親の介護ですから「自分がやらなければならない」「だれも助けてはくれない」「どうして自分だけがこんなにつらい目に遭うのか」と、思考がだんだん悲観的になっていきがちです。心の病に至る道を進み始めているケースです。

子供の問題も大きく影響します。いじめ被害、不登校、志望校に進めなかったための自暴自棄。放置しておくと、引きこもりになったり、家出をしたり、最悪の場合は自殺したりといった大変な事態すら懸念されます。学校は何もしてくれず、教育委員会は責任回避ばかりしているという思考に陥ると、孤立無援の精神状態に追い込まれてしまうこともあります。本来、子供たちの健全な成長には、「保護的な、かつ安心して依存できる環境」が必要です。こどもの「こころの成長」には、自己肯定感や自己達成感が必要だからです。我が子が「自分はだめな人間だ」と自ら烙印を押してしまうような状況では、子供だけでなく親まで精神的に追い込まれてしまいかねません。

経済的問題もあります。不景気で賃金がカットされた。会社が倒産した。親の介護に大金が必要。家のローンに子供の進学費用。いつの時代も経済的に困難な状況になれば、当事者にさまざまな心理的葛藤や焦燥感が生まれます。頭の中が常にお金の算段で占められてしまい、心理的にも行き詰ってしまうと、いつの間にか心の病が忍び寄っていることがあるのです。

身体的な障害も心の病を引き起こす要因になりえます。突然白血病と宣告された。交通事故で半身不随になった。原因不明のめまいで24時間目が回り、吐き気がつらい。こうした肉体的苦痛は、こころの状態にもろに影響します。だれでも、痛い、苦しい、動けない、つらいといった肉体的苦痛を感じている時に、平穏な心ではいられません。「どうして自分だけがこんな病気になってしまったのか」「安全運転していたのに、動けない体になるなんて」「つらいめまいが一生続くのなら、この先どうしたらいいのだろう」。オリンピック候補の女子水泳選手のように気丈にふるまうことは、なかなかできることではありません。

表面上は前向きの気持ちを示していても、内面では人に語れない苦しい葛藤と戦っていることもあります。心と身体は互いに影響を与えあっているのです。禅や道教などの瞑想においては、心の働きと身体の働きが一体になった境地を追求しています。これを「心身一如」といいますが、医学、特に東洋医学の思想には「心身一如」も大きくかかわっています。

介護、子供の問題、経済的問題、身体的障害は、単体でも心の病につながることがありますが、これらが複合的に絡み合ってしまうと、より複雑な影響を与える場合もあります。

ここで、「こころの病」を考える前に、私たちのこころの健康がどのように成り立っているかについて、仕事の側面から考えてみましょう。

仕事やキャリアが人生の中で大きな比重を占めている人は多いはずです。なぜなら多くの人々は生活費を仕事によって得ているからです。サラリーマン、公務員、技術者、医師、左官、教員、すし職人、IT企業経営者、まぐろ漁師、陶芸家、プロ野球選手、農家、ケーキ屋店員、映画俳優。この世には多種多様な職業があります。そして何を目指すのかは自由です。日本国憲法第22条第1項は「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」と謳っています。仕事は生活費を得るための手段です。

しかしそれがすべてではありません。自分が携わっている仕事によって、どれくらい精神的な満足を得ているかも重要でしょう。満足度を図る指標はさまざまです。売り上げトップという成果を自分の能力の高さとして満足感を得るセールスマンがいます。「うまい」と客が言ってくれることが至上の喜びと感じるすし職人もいます。人は仕事を通して常に精神的影響を受けており、とりわけ周辺の人々、関係性が強い人々との仕事上での人間関係は非常に重大になります。また私たちは、仕事を離れると一番身近なところには配偶者や家族がいます。ですから、そこでの人間関係もこころに大きな影響を及ぼします。

仕事というカテゴリーと、家庭というカテゴリー。いずれも人にとって大切です。しかし、いくら仕事が大切とはいっても、耐えられないような労働量や労働環境によってもたらされる過労が蓄積していったり、まったく余暇がないという、かつての企業戦士のような仕事を強いられれば、人は生きる喜びを奪われていきます。体は一つしかありませんし、一日は24時間しかありません。仕事や家庭に絡む人間関係が困難に陥ると、私たちは心身ともに疲れ切ってしまいます。「無理なノルマを課せられて、しんどい」「上司とそりが合わないせいで昇進が不当に遅れている」「会社に怒鳴る上司がいるせいで、どうしても会社に足が向かない」「急に接待ゴルフを命じられて、子供と遊園地に行く約束を破ってしまった」「家のローンと教育費で昼食を抜かないとやっていけない」「2年間だけと言われた僻地の単身赴任が5年になった。家族はばらばらだ」「毎晩帰宅が午前0時を回って、久しく妻や子供と会話していない」。

こうしたことが積み重なると、いくら生活費を得るためとはいえ、仕事へのモチベーションも下がり、生活への意欲も萎えかねません。それでも無理を重ねて頑張りすぎると、過労うつ、最悪の場合は過労死や過労自殺につながりかねないのです。無理を通そうとすれば、こころの病に限りなく近づいてしまう。本来であれば、冷静に考えることができ、解決策を見出して最悪の事態を回避できたかもしれない。それを許さないような仕事現場が悲劇の温床となる恐れは常にあるのです。

皆さんは、過労死を英語ではなんと言うか、ご存知ですか? death by overwork とか death from overwork あるいは job-related exhaustion といった表現もありますが、 Oxford Dictionaries には「過労死」は「karoshi」とも表記されています。「キャロウシ」と発音します。海外では、死にたくなるほど過重な労働に耐えた挙句、最後は死に至るという、日本人の仕事に対する思考や行動に理解ができない人も多いということでしょうか。海外のサイトでも、大手広告代理店の女性社員が過労自殺した事件を取り上げ、「Karoshi crisis : why are Japanese working themselves to death?」という疑問を投げかけるレポートを掲載しています。

私たち日本人は与えられた役割を100パーセント果たそうとします。「80パーセント程度でいいだろう」といった抑制は苦手なようです。超スピードで進められた明治維新の近代化。戦後の焼け野原からの奇跡の復興。さらには高度経済成長時代。「一生懸命、労をいとわず全力を尽くす」ことが良いことだというのが日本のコモンセンスとなり、ある種の同調圧力が常につきまとい、それに従って目標を達成することで人々は評価されてきました。

1964年に開かれた東京五輪の開会式は、過去に例のない完ぺきなスケジュール運営で行われました。日本人は「世界一正確無比な運営だった」と胸を張りましたが、海外の反応は「そこまでこだわらなくてもいいよ」というのが多く、関係者は失望したというエピソードがあります。逆に、海外で列車を利用する日本人がいらいらする経験の一つは、先進国でもダイヤ通り運行されないケースが結構あることです。「乗り遅れないように急いで駅に行ったのに、列車はべた遅れで、しかも駅員は謝ろうとしない」といった経験をした人もおられるでしょう。過度な同調圧力は世界共通の価値観とは相いれないようです。

仕事においても、海外では従業員が残業することを前提とした企業に対する社会的評価は低いのが一般的です。企業には「残業を強いるような経営陣や上司は、人材を適切に運用管理できていない」という批判が向けられます。また従業員は「定められた時間内にできる仕事を与えたのに、完了できなかったのは君の怠慢か、無能のせいだ」という評価をされます。企業によっては、残業した社員の給与をカットするところもあるようです。「君が時間内に業務を完了できなかったから、会社は損害を被った」という考え方です。残業はやるけれど、残業手当をもらうのは当たり前だという日本の企業風土では、とてもそうした考え方は受け入れがたいでしょう。

しかし残業そのものは断りにくい。「俺たちが若いころは、こんなもんじゃなかった」と檄を飛ばす上司に内心不満はあっても「従わないと人事考課に影響するのではないか?」と心配しながら、無理をして働き続ける。そして過労に陥るのです。分かっていながら、いつの間にか精神的にがんじがらめになり、道を見失う。無責任な人が、過労自殺のニュースを見て「自殺するくらいなら、会社を辞めればいいのに」と言ったりします。それができない「こころの病」になってしまっているから問題なのです。この重たい課題は、弱い立場の従業員が変革するのは現実にはとても難しい。力関係で上位にある雇用する側の意識改革が必要なのです。とりわけ、発症者を見つける、発症者はできるだけ早く治療を受けさせる、といった認識では不十分です。今一つ踏み込んで、「極力発症させない」環境づくりが必要なのです。

見えている「こころの病」
それは氷山の一角です

人の心は複雑です
広い視野で物ごとを考える

少し固い話になりますが、こころの病はこれまで「疾患単位」で扱われてきました。現在でもそれは基本的には変わりません。たとえば、うつ病、統合失調症、不安性障害、パニック障害、PTSD(心的外傷後ストレス障害)、アルコール依存症。「疾患単位」とは、平たく言えば、こうした「病名」です。

現代では、これに「発達障害」や「性格障害」などが加重されてきており、診断や治療が複雑化しています。これらの診断、治療の難しさの背景には、例えば、ある人について、どのような家庭環境や交友関係の下で育ったのかという、環境要因としての個人の生育の歴史が治療にも影響を与えるということがあります。

地域の関係性も強いです。最近、東京のあるエリアで社会福祉施設の建設計画が明らかになったとたん、住民の間から「○○には、そのような施設はふさわしくない」という反対論が出て、「地域エゴだ」とか「社会福祉への理解不足」といった批判が出ました。同様なことは心の病の治療についてもいえます。地域の人々の偏見や無理解が原因で、本人にとっても地域にとっても国にとっても必要なはずの治療施設や更生施設の建設反対運動が起きる。こうした現象は前述した地域だけの話ではありません。社会資源としての治療環境を受け入れることは当然だという状態には残念ながらなっていないのが現状です。こうした地域的、物理的事情も、こころを病む人々の治療に影響を与えています。広い視野で物ごとを見定めることが大切なのです。

氷山を見たことがありますか?1912年4月14日、当時世界一と称賛されていた豪華客船「タイタニック号」が衝突し、沈没した原因となったのが氷山です。氷山は、氷河あるいは棚氷から海に流れ出した大きな氷の塊のことで、密度は920キロ/立方メートル。一方、海水の密度は1025キロ/立方メートル。わずかに氷山の方が軽いため海に浮かんでいますが、海面上に見えている氷山は全体の10パーセントであり、残りの90パーセントは水面下にあります。このことから「表立ってみえるのはごく一部であって、大半は見えないところにある」という意味で「氷山の一角」という言葉が使われます。

複雑な「こころの病」を「人間関係におけるコミュニケーションの障害」ととらえるならば、「こころの病」の状態をすべて認識することは困難です。本人の自覚や、第三者の観察や診断で分かっている部分はいわば海面上に顔を出している10パーセントの氷山にすぎません。残りの90パーセントは見えていません。その下には、さまざまな人間の「こころの健康的あるいは病的傾向」が潜んでいるのです。それは、前向きの気持ちや協調性といったプラスの面と、自己中心、嫉妬、妬みといったマイナスの面が混在しています。幅広く、つかみどころがないという面もあります。このように考えると「こころの健康」のイメージが明瞭になり、「そもそも、何が健康なのか」という根本的な問題についての考察も深まるのです。

「こころの病」における
「包括的治療」の現実と問題

薬物、カウンセリング、生活療法の
3本柱は機能しているか

適切な診断の次は、適切な治療ということになります。現在、「こころの不調(病)」の治療法は、医学的にいえば包括的な治療(comprehensive)が一般的です。

これは、①薬物治療(適切な服薬) ②心理療法(カウンセリング) ③生活療法(睡眠・休養などを適切に取る)を一括したものを指しています。本来は、病気の種類によって、①、②、③の比重を十分斟酌し、適切なバランス配分で包括的治療を行うべきなのです。しかし今の日本では、一度「病気」と診断されてしまうと、事実上①の薬物療法のみになってしまいがちです。薬物療法の効果についてはここでは言及しませんが、本来であれば、「なぜそのような症状になってしまったのか」「原因を取り除くには、どのようなアプローチを選択するべきか」という根源的な対応こそが重要なのです。

自転車のタイヤがパンクしても、空気を入れればとりあえずは使えます。しかしすぐまたペシャンコになってしまう。そのたびに空気を入れるよりも、空気が漏れる場所を特定して修理するべきでしょう。「元を絶たなきゃダメ」なのです。しかし現実を見ると、「こころの病い」で病院に通っても、行きつくところは保険診療5分間の世界です。あとは「お薬を出しておきます」で終わり。複雑な人の心の内奥を探り、「こころの病」に至った原因を突き止めて、その原因を除去したり、できないのであれば対処する方策を立てることが「5分間」でできるでしょうか

こうした医療現場の実情を考えると、治療する上で重要なことは、実は「セルフケア」なのだということが理解できます。セルフケアとは「自分の精神状態を知って、対策を講じる」ことです。セルフケアの対極に「おまかせ医療」があります。これまで日本での医療は専門医におまかせで、「自分の精神状態を自ら把握し、適切な対策を常に考える」という自己健康管理という発想は実質的にありませんでした。思い出してください。私たちは学校などの教育機関で、心身の病気について真正面から取り組む教育は受けてきておりません。「生とは何か」について真摯に話したり、「死とは何か」について高度な教育を受ける機会は与えられてきませんでした。

人は習慣の動物です。当然の帰結として、自分の心に対する自己管理や、「生と死」をテーマとした教育体験がゼロの状態のまま育ち、社会に出てしまう。自分の心身が不調なのに、自ら把握しようとしたり、適切な対応を取ろうというアクションが生まれるはずもなく、結局は専門医に「おまかせ」という状況に至ってしまうのです。

今まで何もしてこなかったかもしれないあなた。しかし、決して遅くはありません。今からでもセルフケアに取り組むことができます。これからは「自分の体やこころ」は自分で面倒をみよう。そういう意識を持つことはとても重要です。具体的には2つのことから始めてみましょう。

  1. 「自己診断」してみましょう。睡眠時間は十分取れているか。なかなか寝付けない夜が続いていないか。未明に突然目が覚めないか。食べ物を美味しいと感じているか。栄養のバランスを考えているか。仕事をしていて楽しいと感じるか。家庭にいるとリラックスできるか。出勤時に「今日もがんばるぞ」という気持ちになっているか。会社に行こうとすると腹痛が起きないか。学校のクラスメートの顔が浮かぶと登校したくなくなるといったことはないか。学校は楽しいか。そうした日常のリアルなことを自己検証してみましょう。正直なところ、本人以外に正確に把握することはできないのです。
  2. 職場で、あるいは学校で、相談できる人を作りましょう。コミュニケーションを構築することが孤立無援の精神的陥穽から脱却する縄梯子になるのです。役職を超えて親身になって相談に応じてくれる上司や先輩。いつでもいくらでも愚痴を聞いてくれる同僚。信頼できる産業医。担任でないのに話に耳を傾けてくれる教諭。うわべだけでなく真剣に向き合ってくれる親友。「そんな人がいれば苦労はしない」と投げてはいけません。人は基本的にはコミュニケーションの動物です。とっつきにくそうな上司もこちらが真剣になれば向き合ってくれます。そういう人もきっといます。

こころの病になった時に、「誰もわかってくれない」「どうして自分だけこんなに苦しまなければいけないのか」「しょせん他人は当てにならない」という負の思考に陥ることは避けなければなりません。このセンテンスの冒頭に「相談できる人を作りましょう」と書きました。そうです。作らなければならないのです。そういう努力が必要なのです。じっと待っているだけで、空から都合よく相談できる人が降りてくるわけがありません。甘えの構造を自ら打破する勇気も、時として必要になります。こころの病の専門医は、常にそのサポーターであり続けます。

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